墨田川七福神巡りとは?1月1日~1月7日までの間に参拝しにいこう!

墨田川七福神

墨田七福神巡りとは?

墨田川七福神巡り

目黒区の2つの神社と3つの寺院、1つの園の計6ヵ所を巡ります。

東京スカイツリーにも近いため、東京スカイツリーを眺めながら巡ることができます。

【最寄り駅】東京スカイツリーライン 堀切駅、東京スカイツリーライン とうきょうスカイツリー駅
【色紙】元旦から1月7日(有料)
【参拝時間】09:00 – 17:00
【移動時間】徒歩で約2時間

色紙の金額は?

墨田川七福神

【色紙】
・色紙 300円
・朱印(手書き) 500円 ×6

色紙は300円、朱印は各500円でお授け頂けますので、合計で3300円掛かります。

墨田川七福神
色紙を入れる袋には、スタンプを押せるようになっております。

各場所に無料のスタンプも設置されておりますので、合わせて押してみてください。

スタンプ用色紙は通年開催されています

墨田川七福神
【スタンプ用色紙】
・スタンプ用色紙 300円

スタンプの色紙は通年開催されています。

色紙のお布施のみ行えば、スタンプは無料なのでお子さんと一緒に巡ってみてはいかがでしょうか?

墨田川七福神巡りのお寺と神社

出典:隅田川七福神公式パンフレット

墨田川七福神

墨田川七福神巡りのお寺・神社
  1. 多聞寺/毘沙門天
  2. 白髭神社/寿老人
  3. 向島百花園/福禄寿
  4. 長命寺/弁財天
  5. 弘福寺/布袋尊
  6. 三囲神社/恵比寿・大黒天

巡る順番はどこから巡っても問題ありません。

昔は海から宝舟が上るということで、川下の三囲神社から川上の多聞寺へ向かうことが多かったそうです。

現在は多聞寺からスタートし、三囲神社まで順番に巡った後はスカイツリーを観光して行かれる方が多いようです。

流川 萌愛

ここでは公式パンフレットの順番で多聞寺から進むルートをご紹介します。

1.多聞寺/毘沙門天

東京都墨田区 多聞寺

公式サイト MAP

多聞寺について
七福神めぐりは通常南から始めることが多いので、毘沙門天(びしゃもんてん)を祭ってある多聞寺は、最後の順番となっています。
かつては、大鏡山明王院隅田寺(だいきょうざんみょうおういんぐうでんじ)と称し、不動明王を本尊としていたが、天正年間(1573~1591年)に住職鑁海上人(ばんかいしょうにん)が夢のお告げにより毘沙門天を本尊とし、隅田山吉祥院多聞寺と改称したと伝えられています。
古くは隅田堤の外の隅田川神社に近い、多聞寺屋敷という所にありましたが、天正年間(1573~92年)に現在地に移されました。この寺は慶長11年(1606年)に建立され、本尊の毘沙門天像は、弘法大師の作と伝えられます。
茅葺の山門を入ると左側に、「狸塚」と刻んだ石があります。伝説によると、このあたりが草深い里だった頃、本堂のすぐ前の大きな老松の根本に古狸の夫婦が棲んでおり、村人をおどかしたり、いたずらをしたりすることが度々ありました。そこで村人達は住持と話し合い、この老松を切りはらってしまったのですが、狸の悪さは一層ひどくなるばかり。
因った住持は、一心に本尊毘沙門天に祈ったところ、ある夜毘沙門天門下の禅尼師(ぜんにし)童子が現われ、宝棒で狸を打ちすえる夢を見ました。翌朝、庭に二匹の大狸が死んでおり、この狸を葬った場所に石を立て、狸塚にしたといいます。
狸塚があることからたぬき寺ともいわれています。
毘沙門天を本尊としていることから文化年間(1804~1818年)に隅田川七福神のひとつとされ、山門左側にある『毘沙門天』の案内碑は、当時向島に住んでいた榎本武揚が碑文の文字を書いています。
関東大震災や戦災による被害を受けていない多聞寺は、昔の面影を残す区内でも数少ない寺院で、特に茅葺きの山門は享保3年(1718年)​に火災により焼失した直後に建てられた区内最古の建造物といわれています。
引用元:隅田川七福神巡り
毘沙門天
毘沙門天は、もとはインドの神様で、別名多聞天とも言われています。
帝釈天の部下の四天王の一員で、世界の中心に立つ須弥山(しゅみせん)の北方を守護していると言われています。よろい・かぶとに身を包み、武器をたずさえている勇ましい姿であらわされます。
三界に余る程の宝物を持っていて、善い行ないをした人達にはそれを与えるのですが、あいにく世の中にはそういう人が少ないので宝が余ってしまい、毎日須弥山三つ分程の宝を焼き捨てているということです。
勇壮な神様ですので、古来武人等に信仰する人が持に多く、中でも上杉謙信などは熱心な信者であり、毘沙門天の「毘」の字をその旗印にしていました。
引用元:隅田川七福神巡り

2.白髭神社/寿老人

東京都墨田区 東向島白鬚神社

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白髭神社について
白鬚神社は隅田川の堤の脇にあり、向島では最も古い由緒ある神社の一つです。
社伝によると、天暦5年(951年)に、慈恵(じえ)大師が関東に下った際、近江国志賀郡打颪(うちおろし)(現滋賀県高島市)の白鬚大明神の分霊を、ここに祀ったといわれています。
祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)で、国土の神・道案内の守神であり、隅田川沿いの道祖神の役割もありました。御祭神が道案内の神というところから、後世、お客様を案内する神という信仰が生まれ、千客万来・商売繁昌などの祈願がなされました。社前の狛犬や石燈籠などが、当時の花街、吉原の料亭から奉納されていることでも、その信仰が窺われます。
平成2年(1990年)、放火とみられる不審火にて社殿が全焼しましたが、平成4年(1992年)にコンクリ-ト建てながら以前にもます立派な社殿が完成しました。
境内には多くの石碑があり、社殿のすぐ左手には加藤千蔭筆の白鬚神社縁起碑、参道脇にまとめられた碑には、墨多三絶の碑などがあります。また、幕末の幕臣で、外国奉行だった岩瀬鴎所(おうしょ)の供養碑もあります。日米通商条約等で活躍した人ですが、将軍の跡継ぎ問題のため安政の大獄で退けられ、向島で晩年を過しました。
他に、永井荷風の母方の祖父で、明治の顕官として活控した鷲津毅堂(わしずきどう)の碑などもあります。
社殿で授与される勾玉型をした災難よけの土鈴は、いかにもひなびた民芸品の香り高いもので、人気があります。
また江戸時代に、近郊農業として生産された寺島ナスにちなむ「招福茄子」の根付けが頒布されています。
引用元:隅田川七福神巡り
寿老人
福禄寿と同じく中国出身の神様で、道教の思想から出ており、「寿星」を人格化した神様です。
一説には、福禄寿の別名とも言れれています。
寿老神は手に杖を持ち、その杖には、人の寿命の長さを記した巻物が結びつけられています。
鹿をつれていますが、この鹿は深山神のお使いで、3000年の長寿の象徴であるといわれます。人々の安全と健康を守る長寿の神様として信仰されているゆえんです。
隅田川七福神に限り、「寿老人」を「寿老神」と記しています。これは、「由来」の項でも述べたように、隅田川沿岸の七福神を選び出した時に、寿老人を祭ってあるところだけが見つからなかったので、百花園のある寺島の鎮守、白鬚大明神を、その御名前からして白い鬚の老人の神様だろうからと、寿老人にあてたことから来ているのです。
石碑には、「白鬚大神」と刻まれています。
引用元:隅田川七福神巡り

3.向島百花園/福禄寿

東京都墨田区 向島百花園

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向島百花園について
隅田川七福神の発祥の地百花園は、文化元年(1804年)に仙台の人、佐原鞠塢(きくう)が開いたものです。百花園という名は『梅は百花のさきがけ』という意味で酒井抱一が命名したといわれています。
鞠塢は日本橋で骨董屋として財をなした人ですが、晩年この地に隠退し、多賀屋敷跡を買い求め、かねてから親しくしていた文化人の太田南畝(おおたなんぽ)〈蜀山人〉、亀田鵬斉(かめだほうさい)、谷文晁(たにぶんちょう)、大窪詩仏(おおくぼしぶつ)、加藤千蔭(ちかげ)らから寄贈された梅樹三百六十株を植え、梅園としました。
このために亀戸の梅屋敷に対して、新梅屋敷と呼ばれました。そのうちに万葉の草花なども植え、江戸市民の絶好の行楽地となりました。
ちょうど文化・文政期(1804~30年)にあたり、江戸町人文化の最も栄えた時代でもあって、人々は花と親しみながら茶を喫し、隅田川焼き(楽焼きの一種)を楽しみました。
この評判を聞き、時の11代将軍家斉(いえなり)もこの庭園を訪れています。
その後、明治時代、洪水による被害などによって一時荒廃したが、寺島村に別荘を構えていた小倉石油社長小倉常吉氏が園内の旧景保存に努め、昭和13年に東京市に寄付されました。
太平洋戦争の際、大空襲のためすっかり損壊、昭和24年に東京都の手により、現在のように復興されました。いま東京に残る名園といれれる公園は、ほとんどが大名の邸などですが、百花園ばかりは、向島の隅田川情緒を結実した、町人文化の粋であるところに持色があります。
昭和51年(1976年)には、国の名勝史跡に再指定されました。
蜀山人の手で「花屋敷」と書かれた風流の門をくぐると、四季の植物をあしらった庭のあちこちに、亀田鵬斉の「墨沱梅荘記(すみだばいそうき)」の碑文をはじめ、数多くの歌碑や句碑を見ることができます。
今も、春の七草籠の配布、夏8月の虫ききの会、秋の月見の会など、風流な催しが行われています。
引用元:隅田川七福神巡り
福禄寿
福禄寿は長頭短身の老人の姿で知られる神様で、出身地は中国です。福寿を司るとされる南極星の精と考えられていました。
風俗記という古書には、こんな話がのっています。
中国の宋の時代、都に背が低く、頭が長く、ひげを伸ばした老人がいて、占いをしていたそうです。稼いだ金で酒を飲んでは、「我こそは寿を与える聖人なり」と言っているのが宮中でも噂になり、ついに皇帝がこの老人を召し出しました。「今何歳か?」と帝が問うと、「私は南方から来た者で、酒に酔っていないと、うまく話せない」との返事。
それではと酒を与えると、「私は黄河が澄むのを度々見たことがある」と話し出しました。
中国の大河、黄河は常に濁っており、一千年に一度だけ澄むと伝えられています。
「これは大変な長寿の人だ」と帝が思った時、にわかにその老人は消えてしまったということです。
引用元:隅田川七福神巡り

福禄寿

1月1日~1月7日までの間だけ、御朱印も頂くことができるのじゃ。

4.長命寺/弁財天

東京都墨田区 長命寺

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長命寺について
弘福寺の北隣りの寺が、長命寺です。開山は明らかではありませんが、元和元年(1615年)頃の創建とも伝えられています。もとは常泉寺と号していました。
寛永年間(1624~44年)に、3代将軍家光が鷹狩の途中、不意の腹痛のためこの寺に休憩した際、境内の井戸水を汲み、薬を服用したところ、たちどころに痛みが消え快癒しました。喜んだ家光がその井戸に長命水の名を与えたところから、以後寺号を長命寺と改めたといいます。今も残る長命水石文や洗心養神の石碑が、それを物語っています。
境内には、他にも様々な石碑が立ち並んでいます。
江戸時代には雪見の名所であったところ方ら、芭蕉の雪見の句碑や、十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)の辞世の狂歌碑、太田蜀山人(おおたしょくさんじん)の狂歌碑等があります。
また、江戸時代の有名な国学者、橘守部(たちばなもりべ)の墓、幕府の外国奉行・会計副総裁をつとめ、明治になってから「朝野新聞」の社長に迎えられ、時事風刺の文を書いた成島柳北(なるしまりゅうほく)の上半身を浮き彫りにした碑などもあります。
古くは境内に弁天堂や芭蕉堂もあったが、いずれも焼失してしまった。
門前の桜餅も有名で、現在『山本や』が二百数十年の味を伝えています。
引用元:隅田川七福神巡り
弁財天
七福神のうち、紅一点の弁財天は、水辺に多く祭られている神様で、長命寺の弁財天は、琵琶湖竹生島の弁財天の分身です。
そもそもインドの神様で、もとは河(水)の神様でした。日本に伝来してから、弁舌や音楽を司る芸能の神として信仰されました。琵琶を奏でている御姿で描かれることの多いのは、そのためです。
言葉の神ということから文字・学問・智恵の神となり、やがて智恵や学問は福財をもたらしてくれるということから、貧乏から人々を救い、財宝を与えてくれる神としての信仰ができました。
それにともなって、それまで「弁才天」と書かれていたのが、いつの間にか「才」が「財」の字に置き換えられて、福の神の仲間入りをしたのです。水の神様ということから、蛇がお使いとして選ばれ、巳の日に参拝するという風習が生まれました。
引用元:隅田川七福神巡り

5.弘福寺/布袋尊

東京都墨田区 弘福寺

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弘福寺について
三囲神社より北へ、約100メートル程行くと、七福神の1つ、布袋尊(ほていそん)を祀ってある弘福寺があります。
この寺は、黄檗(おうばく)宗大本山、宇治の黄檗山萬福寺の末寺で、同宗の名僧鉄牛和尚(てつぎゅうおしょう)の手で延宝2年(1673年)に、創建されました。同じ禅宗の中でも最も中国に近い宗派として名高く、その建築も重層の屋根、大棟の宝珠、鴟尾(しび)、廂(ひさし)の蛇腹天井(じゃばらてんじょう)、細棧の扉、両翼の円窓、堂前の月台、柱にかかる聯額(れんがく)などを持つ中国風の特色多い寺院です。
境内右手の小祠には咳(せき)の爺婆尊(じじばばそん)の石像を祀ってあります。この像は寛永年間(1624~44年)に、風外(ふうがい)和尚が真鶴山中で修業中に、父母に孝養を尽せぬことをいたんで刻んだものと伝えられます。後に、弘福寺に移されました。風外和尚の両親の像だから風邪にも強かろうと、爺像は喉頭の病に、婆像は咳止めにご利益あるとして、今でも風邪除けの信仰を集めています。
江戸末期の儒者池田冠山(かんざん)の墓碑など、著名な墓も多くあります。開山当時より江戸中にきこえた名寺で、現在でも向島きっての名所となっています。
佐原菊塢の百花園に集う文人墨客らは、禅宗に関わりの深い布袋和尚木像が本堂に祀られていることに注目し、隅田川七福神のひとつとしました。
引用元:隅田川七福神巡り
布袋尊
布袋尊は、中国の唐の時代の禅僧で、その名を契此(けいし)といい、七福神の中ではただ一人の実在した方であります。額が広くてお腹は大きく、いつも杖と大きな布袋を持ち歩き、物を貰えばそれをこの袋に入れて貯え、因る人があると、その中から取り出して施し、しかもなくなることがなかったといわれています。そのため後には発財菩薩といわれ、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の再来ともいわれ、世の人々からうやまわれ信仰されました。
無邪気で欲がなく、おおらかな性格とあわせて子供達から人気があり、幸せを願う世の人の共感を誘い、七福神の仲間入りをしたものと思れれます。
この世の幸福とは、金銭欲や物欲を満足させることだけではない、ということを教えてくれる神様といえましょう。
引用元:隅田川七福神巡り

6.三囲神社/恵比寿・大黒天

東京都墨田区 弘福寺

隅田川七福神巡り MAP

三囲神社について
以前は「三囲稲荷(みめぐりいなり)」と一般に呼ばれていた墨東の古社です。
草創年代については明らかでないのですが、社伝によれば、600年ほど前の文和年間、近江国三井寺の僧源慶(げんけい)が東国を巡礼していた途中、隅田川のほとり、牛島のあたりを通りかかると、荒れ果てた小祠が目につき、農夫にその由来を尋ねると弘法大師創建の由緒ある祠であるとのこと。
源慶はそのさまを深く悲しみ、自ら再建に着手しようとして地面を掘ったところ、白狐に跨った神像が納められた一つの壷が出て来ました。
そのとき、どこからともなく白狐が現われ、神像のまわりを三度めぐって、またいづこともなく消え去りました。この故事から「みめぐり」の名が起ったと伝えられています。
境内には数多くの石碑が立っていますが、その中でも最も有名なのは、其角(きかく)雨乞いの句碑でしょう。
「此御神に雨乞する人にかわりて 遊ふ田地(夕立)や田を見めぐりの神ならば 晋其角」と刻まれています。元禄6年(1693年)は春から非常な旱ばつで、附近の農民は三囲の社頭に集まり、鉦や太鼓を打ら鳴らして、ただただ雨乞いをするばかりでした。そこへ俳人として高名な其角が参詣にきて、「夕立や‥‥‥」の句を献じたところ、翌日から雨が続き、農民の苦難は救われたと伝えられています。
大国・恵比寿の二神は、境内にある末社月読命祠(つくよみのみこと『月読さん』)に祀られており、社殿は安政2年(1855年)改築以前の本殿の木材が使用されています。
また大国・恵比寿神の像は、もと越後屋(現在の三越)にまつられていた本像です。
引用元:隅田川七福神巡り
恵比寿
恵比寿神は、そのお姿が鯛を抱え、釣竿をもっていることで表わされるように、本来は漁師の神であって海のかなたから渡って来た豊漁をもたらす神として、深く信仰されてきました。
室町時代頃から商業が盛んになってくると、市場の神となり、さらには商売繁昌の神としても信仰を集めるようになりました。古くから、俗に恵比寿・大国というように、一対の神として商家などに祭られ、それにまつわる信仰習俗も盛んです。七福神にとり入れられるときも、
同じような御神徳を持つ神として、大国神と並んで崇められることになったのは、そのためであるといえましよう。
引用元:隅田川七福神巡り
大黒天
福神のうちの大国神は、大黒天ともいわれます。
大国神は日本古来の神で、神話に登場する大国主命(おおくにぬしのみこと)と考えられていることが多いようです。また大黒天はもともと仏法の守護神として崇められていたインドの神ですが、仏教が中国を経て日本に伝わる過程で、台所を司る神として性格が加えられたようです。
そして大国と大黒との読み方が同じであることや、御神徳が似ているところから、慈悲深く富貴を授ける神として混合され、信仰されるようになったのでしょう。頭巾をかぶり、小槌を持ち、大きな袋を背負い、米俵にのるお姿は、そのような御神徳を表わしているのです。
引用元:隅田川七福神巡り

七福神巡りのマップはコチラ

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